星 占 い ホ ラ リ ー 西 洋 占 星 術

西洋占星術は、唯識論をベースにしています

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■ 唯識論 あるいは 唯神論

占星術は統計学だといわれたりします。ネイタル占星術を惑星のサイン位置にだけ頼って判断しようとすると、そうも思いたくなります。しかし、体質の把握などネイタルのベースになるようなものを把握しようとチャートに向かうと、統計学で計算することがかなり難しいことが理解できます。チャートからネイタルの体質を把握するには、惑星のハウス位置が重要な意味を持ってきます。惑星がハウス位置を刻一刻変化させたり、アセンダントやミッドヘブンが刻一刻サイン位置を変化させるので、たゆまず変化している要素によって成り立っている占星術を考えるようになります。
もともと組み合わせで意味をなすのであり、ある惑星のその時のサイン位置だけでは統計を取ったとしてもあまり意味はありません。組み合わせの要素は、惑星の置かれている、ハウス、サイン、他の惑星とのアスペクトとアスペクトに準ずるもの、アセンダントとの関連性、リセプション、恒星との重なり、等です。これらの星占いの要素の全てを、あるいはほとんどを― 全て統計に入れ込むのはかなり難しいことと思われます。

占星術に神なんて関わっていないという立場を明確にとる人はあまりいらっしゃらないように思います。唯物論的な占星術の立場をとられる方々は、あまり存在しません。占星術は唯識論--唯神論です。ネイタルやホラリーやその他の占星術上作成されたチャートに示される太陽や月、土星や木星の位置は唯識論では位置を示す印であって、それらが我々に物理的な影響を与えているわけではありません。


唯識論であるとする占星術の立場は、惑星を象徴としてとらえます。統計学的なものではないととらえます。そしてこの世の(宇宙といってもいいですが)全ての中心的な、たぶん一つである『本質』を七つに分類し、七つの惑星に当てはめます。七つです。一週間が七曜であるように七つです。又、12のハウスも(正確にはマンデンハウス(我々の住む地上の))、本質は振り分けられて、七つのうちのどれかに割り振られています。決して外惑星は エッセンス-『本質』を振り分ける際には考慮されません。どこかで七つ以上に振り分けられた占星術を見かけたとして、それはちゃんと十曜日に変えてありましたか? 唯識論的な占星術の定理では七つです。

例えば、「歓び」というものを分類すると(マンデン)ハウス上では5ハウスになります。それは金星を歓びの象徴とする惑星であるとしていて、その金星が5ハウスを司っているからです。そして、歓びを探求しすぎると、人生では自己破滅に至るとする同じく金星を振り分けた12ハウスに自己破滅という注意すべき意味を持たせ、金星は再びその12ハウスをも司ることになっているわけです。

ここで疑問が生じる方々もいらっしゃるかもしれません。5ハウスは獅子のサインになるから太陽ではないの? 12ハウスは双魚宮だから木星ではないの? 西洋占星術何千年の歴史を振り返って、そうなったのはアラン・レオ以降のここ100年ばかりの唯物論的な占星術のみがその立場をとっています。 タマネギ構造を思想の背景として持っている占星術ではそうはしていません。

占星術が唯物論に見えるのは、月の引力に代表されるように、惑星が我々に影響を与えているじゃないかという『力』、唯物論的な『力』に目を奪われる結果です。その力を認めると小惑星が見つかる度に、彼らの影響はきっとあるのではないかと考え、そのうちに解明されるはずだとして意味探しという煩雑で多忙な忙しい占星術となりはてます。唯物論的な考え方を押し進めるにしても、全天360万個ぐらいの命名された小惑星が発見された段階で、彼らはお互いに影響力を相殺し合っているんだという考え方に落ち着くはずです。

■ 占星術が唯物論であるならば。

惑星の影響理論を追求する羽目になります。既に多くのその為の論文が書かれています。それは天文学でもなく、占星学でもなく、いったい何でしょう? 海王星、天王星、冥王星を差し込みながら、なぜ曜日を十に増やさなくてもいいのかという理論を読んだことはありません。唯物論であると断言できる、その根本的なものが考察されていません。占星術は唯物論であるとする説の登場を切に期待したいものです。そこではどんな理論が展開されるのか見てみたい気がします。

おそらく、占星術は唯物論であるという理論は表れないでしょう。なぜなら、研究すればするほど歴史からの考察もしなければならず、その途中の段階で研究者は唯識論との比較検討をするはめになるからです。

■ 唯物論とは何か

全ては心の現れであるとする考え方のことです。諸現象は唯心の象現という言い方をされます。この概念は仏教だけではなく、アリストテレスやキリスト教の考え方の中にもあります。旧訳聖書のエレミヤ書17-09には、「心は他の荷物(にもの)にも勝って不実であり、必死になる」と書かれています。これはどういうことでしょうか? 人は自分の周りに起こり来ることが自分の心に源が有るということを知らず、他の要素や偶然も加味されていると思いたがります。預言者エレミアは、心は必死で心を外界に表現しているという神の言葉を語ります。それは、普段思っている以上のことを心は現象化しているので、顕在意識の望みと食い違い、不実なんだと述べるわけです。でも、現象化したものの方が本来の心が必死で作りだした全く内面の正確なものであると認識すべきだと、神はエレミアを通して告げたわけです。仏教の唯識論は、そのまま教えとして存在します。あなたの周り---それはあなたの心だと。

ネイタル(誕生の)チャートを作れば、それはその人の生まれた瞬間に持っていたその人自身が示されることになります。気象も温度も周りにいた人達もネイタルを示すのですが、それを客観的に印す方法を現在の人類は持たないので、唯一客観的な時間と場所と惑星の位置を利用しているのです。それが、占星術です。ネイタルの心が現した象現であるとしてそれを読み解いていきます。

ホラリーのチャートとは何か? 質問が生まれた(占星家という助産婦によって)という質問にとってのネイタルチャートです。質問者自身が質問したときではないのでしょうか? 質問者は質問を常に考えていて、いつ自分が自分の質問を産んだか分からないものです。質問がまだ身籠もっている状態と捉えることができます。産ませる介添え者助産婦役が占星術師です。自分自身で産むことももちろんできますが、産もうと決定してチャートを組んだ時、あるいは、占星家が質問を取り出した時と場所が、質問が生まれたといえる瞬間になります。そしてそれらは全て偉大なる時間に左右されています。あくまでも時間です。

ここが不思議なところです。占星術では時間と場所が全てを司るとします。ネイタルのチャートが出来るとしても、ものすごく複雑な働きをする神が、多くの生命体のその瞬間瞬間という時を決定しているのでしょうか? そうは考えにくいと思います。そうなのかもしれませんが、そうではないでしょう。人、動物、昆虫、心、様々な魂達。瞬間・瞬間何十億という生まれ死にいく生命に宿る魂が必然的に備えている時間を決定する能力によって、それは決まるのだと思います。必然的に時間を決定する能力を備えているとするのは、時間という神の分身だからに他ならないからではないでしょうか。時間が神の分身であるとする宗教は存在します。であるとするならば、固有の心が必然の象現を取らせる時間を決定させる決定権を持たされている=魂となります。とすれば、時間とは何でしょう?

ここで、魂に時間を決定する決定権を与えられていなかったとするならば、又は、神が時間を決定していないのであれば、占星術は当たらないことになります。それでもまだ唯物論なのでしょうか? また、そうすると時間とは何でしょう? 

繰り返しになりますが、諸現象が時間を決定できる心による象現でない限り、占星術は当たらないことになります。決定権は全ての魂に不思議にも内包されていると捉えられます。動物が行方不明になった時のホラリーも的中することは、それをヒューマン・マインド(人間)に限定しているわけではないということが分かります。全ての心・魂はそれを内包して存在していると言った方がいいかもしれません。とすると、時間とは何でしょう?

ここに唯識論の源泉が潜んでいます。

2003年 7月31日(木曜日)


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